真実と気持ちのバランス。
「やる気が出ないから無理。」と、簡単に言う子供。
「やる気なんて自分で出すんだよ。」という、私。
数ヶ月前、脳科学の茂木さんがやる気について必要ないとおっしゃっていた。
茂木さんのブログ
「やる気」などという無駄なものにとらえわれずに、ただ、すーっとやるべき事に入って、そのまま集中すればいいのである。「やる気」など必要ない、ただやればいいのだと思うだけで、どんなに気持ちが楽になって、また、毎日の継続がフローに近くなることだろう。「やる気」は必要ないのだ。
ブログの中でこうおっしゃっています。
このことを知ってから、子供が「やる気がでない。」というときに、
「脳科学者茂木さんが言ってるんだよ。やる気なんて必要ないってさ。人間ってそうなんだって。」と答えていました。 科学的解明された時事が、人間のつくりなんだから、やる気にこだわらずやれば、楽になるんだよ。という気持ちでした。
先日、このことを子供に言ったとき、
「もう、毎回毎回、やる気が出ないっていったらそういうけどさ。科学的にはそうかもしれないけどさ、じゃぁ、このやる気が出ないという気持ちはどなるのよ?」
と娘に言い返されました。
科学的にはそうかもしれないけれど、でも、気持ちが科学についていっていないというか、科学に反したいと思っているというか。
この、問いかけすごく大きなことに感じました。
これから生きていく社会の問題にもなっているような気さえしました。
今は、どんどん科学が進化しています。
いろいろ、解明されています。 そして、解析されています。
科学的にそうだ。とか、データ解析結果によるとそうです。と言わると、「人間の本質はこうなのだから逆らえない。」と言われているような気分になります。
これから、どんどん科学が進化していって、AIが進化していくため、個人データがビッグデータとして集約されて管理されていったら、何かに挑戦する前からあなたは遺伝子的に無理ですよ。と言われたり、これをを食べると病気になりますよ、とか、この生活をしないと寿命が何歳から何歳になりますよ。とか、「データに基づいて解析されているので、これが逃げられない真実です。」と突きつけられてしまうような。病気にならない身体づくりはありがたいことかもしれないけれど、やりたい仕事もデータに基づき不適合と判断されたら挑戦できないとか、もっといったら 結婚相手すら遺伝子的な情報やデータで解析された完璧な相手を決められてしまったり。
それに、データをもっている一部の人たちに無意識に支配されていいるかもしれない気持ちまで感じてしまう。 心はおいてきぼりにされて、科学的根拠だけに従えば、完璧な人間になるのか? 完璧な人生になるのか? 完璧というのが、何を指すのかはわからないけれど、「解析された真実」を知っていくことが何か運命が決められている気分で怖くなったり、心に逆らっている気持ちになったりする。
科学的に証明された方法は一番確かな近道だ。というのはわかる。それに、従えば 失敗もしないし、楽になるという考え方もあるだろう。「解明された本質的に逆らえない事実」なんだから、それに従うのが健全という考えもあるかもしれない。 そして、医学が進歩したのは、データが解析されて的確な判断や、方法わかってきた結果でもあるので、解明し解析し、知ることも大事だというのはわかる。
科学的証明された事実に、心が置いてきぼりにされず(でも、本当は置いてきぼりな気持ちにはならないようにうまく管理されて)、コントロールされる時代が来るような気もしている。そうなったときが、一番怖い。 無意識に自分で選んだと思った行動が、実はそう導かれていたなんて、映画の世界の作り話であって欲しい。
人って、知らないことへの不安もあるけれど 知らないことは、希望にも絶望にも自分がしたいように解釈できるので、その事実を主体的に自分でコントロールできる。 おばけを信じるかとか、UFOを信じないか。のような話みたいに。
科学的根拠やビックデータで解析されたで情報って 自分の考えとは違っても 受け入れなきゃいけない事実のように思えてしまう。 では、その科学的に解明された真実の情報を、無視すればいいか。というと、それも違っていて、それでは「時代がちがう。今を知らない。」となってしまう。 情報を得ないで生きることはなかなか難しい。
そう考えると、科学的に解明されていなことがまだまだある今は、知らないことが多い分、まだ自由な方なのかもしれない。私たちがこれから、どんどん進んでいく未来は、時間の自由は増えても、こころの自由がどんどんなくなっていくのだろうか。 自分の人生の主人公は自分であるというのが、幻になっていくのだろうか。 進歩は止めれれないだけに複雑な気分になってしまった。